施設紹介
水土里ネットつるた川の管内には、「 品井沼干拓事業 」と呼ばれる元禄時代から昭和まで260年あまりも水害と戦い続けた先人達の歴史があります。
品井沼は大崎市から松島町にかけて広がっていた巨大な遊水地であり、鶴田川や吉田川、大迫川、他多数の河川から水が流入していましたが、深さは1.0~2.0m程度で、最大でも6.0mと浅い沼地でした。また、沼底の標高と海水位がほぼ同じであり大雨や台風時の排水がとても困難で、度々氾濫をおこし地域住民を苦しめてきました。
ここでは、それら水害と戦い続けた「 品井沼干拓事業 」で造られた施設を紹介していきます。
01元禄潜穴(げんろくせんけつ)1693年 起工 ~ 1698年 完成
左の写真は元禄潜穴の穴頭(潜穴の起点) | |||
北部平堀 | 元禄潜穴 | 南部平堀 | |
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延長 | 1,754m | 2,578m | 3,065m |
幅 | 27~54m | 3.6m | 18m |
深さ | 2m | 2.4m | 1~2m |
品井沼の水を松島湾に排水し、鳴瀬川からの逆水を防いで水害をなくし新田開発をおこなうために採掘されました。北部と南部の平堀と元禄潜穴を含め「 元禄排水路 」と呼ばれています。
採掘部は強固な凝灰岩でできている為、「 ずり出し穴 」と呼ばれる竪穴を10箇所程掘り、各竪穴から横穴を掘る方式で採掘されました。潜穴は2本採掘されましたが、施工にあたり品井沼周辺住民10万人と5年の歳月をかけ完成しました。
元禄潜穴は松島町指定文化遺産に指定され、土木学会選奨土木遺産として明治潜穴と吉田川サイフォンともに認定されており、歴史的な遺跡として認められています。
元禄排水路の縦断図
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02明治潜穴(めいじせんけつ)1906年 起工 ~ 1910年 完成
左の写真は明治潜穴の穴尻(潜穴の終点) | ||||
北部 排水路 |
明治 潜穴 |
南部 排水路 |
南部平堀 | |
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延長 | 2,183m | 1,309m | 407m | 3,027m |
幅 | 15~18m | 6m | 20~40m | 20~100m |
深さ | 4m | 4m | 4m | 4m |
元禄潜穴は改修工事を重ね170年間もの間利用され続けてきましたが、明治時代になってからは崩落や、土砂や草木の堆積により機能が保てなくなってきました。その抜本的解決の為に造られたのが3本の明治潜穴になります。施工難易度、工事中の犠牲者、資金難、工事中止派と継続派の対立など、決して順調とはいえない中工事は進められ、4年の歳月をかけ完成しました。
明治潜穴は東宮殿下(のちの大正天皇)が一分間お召列車を停車させ、施工現場をご台覧されたことがあります。この時代、停車場以外にお召列車が停車することは前例がありませんでした。それを記念した記念碑が元禄潜穴の穴尻側に建てられています。
明治排水路の縦断図
03吉田川サイフォン(よしだがわサイフォン)1932年 起工 ~ 1934年 完成
吉田川サイフォンは幡谷サイフォンとも呼ばれおり、品井沼の湛水被害軽減、干拓の促進を目的として造られました。堤防で吉田川と品井沼と分離し、サイフォンで鶴田川を吉田川の下を潜らせ(合流させない)、鶴田川の水を潜穴の流路(高城川)に繋ぐ役目を果たしています。
サイフォン管は鉄筋コンクリート造の7連管で内高3.0m、内幅2.6m、長さは増築を繰り返し、竣工時103.8mだったのが200mまで拡張されています。
サイフォン断面図(簡略・引用)
Wikipediaより引用(出典 : 吉田川サイフォン)